「は……?」
調理室にずらりと並んだ調理台。その一つに、後で片付けようと置いていたはずの調味料やボウルなどが無惨に荒らされていた。
ボウルは逆さまになって大分遠くまで転がっているし、塩の瓶は中身を撒き散らしながら床に広がっている。鞄はどこ、と目を走らせると、流し台の中に放り込まれていた。
「な、なにこれ、さいあく……」
今さっき散々なことがあった上に、さらに駄目押しされて、その場に崩れ落ちそうになる。
ねずみか、それとも開いてる窓から猫でも入ってきたのか。咄嗟に思いついたのはその二つだったけれど、すぐにその可能性は打ち消した……というか、ねずみの方がまだマシだった。床に広がった塩の粒子の上に、はっきと人の足跡がついていたからだ。
泥棒――なわけ、ない。放課後とはいえまだ明るいし、人も多い。それに調理室を狙う泥棒なんて聞いたことがない。
緊張しつつ、足跡の向いている方へ視線をやると、一番奥まったところにある棚のガラス戸が全開になっていて、並べておいた調味料がすべて倒されていた。それに、調理台の影で隠れて見えないけれど、確かに人の気配がした。
忍び足で近づいて様子を伺うと、視界に入ったのはうちの学校の制服姿――というか、よく見知った後姿だった。
ほっと息をついて、強張っていた全身の力を抜く。
「なんだ……なにやっての鈴村」
鈴村はこちらに背中を向けて姿が床に座り込み、なにかごそごそと手を動かしていた。
振り向かないことに多少ムッとしつつ、横に回りこんで顔を覗き込む。そうして初めて、何をしていたのかを見ることが出来た。
「ば……馬鹿!! なにやってんの!?」
鈴村は左腕に砂糖入れを抱え込み、そしてその中身を一掴みして、ばくりと口の中に放り込んだ。口の中で頬張って、まだ飲み込まないうちに、さらにもう一掴みした砂糖を口の中に放り込む。
「ちょっと……!」
止めようと右腕を掴むと、強い力で乱雑に振り払われた。
それならばと砂糖入れごと奪い取ろうとしたら、鈴村は容器を隠すようにぐっと体に抱え込んでしまった。そして誰にも渡さないとでも言うように、体を小さく縮みこませる。そんな体勢でも尚、なんとか砂糖を口に入れようとしているのを見て、心底ぞっとした。
「さすがにそれは病気になるって! やめなよ!!」
確か今日は、朝にコンビニで買ったお菓子渡して、それ以降は一度も呼び出されなかったんだっけ。珍しいこともあるもんだなあって思って――で、なにこれ。なんでこんなことになってるの。
「鈴村やめなって!」
「うるさい邪魔するな!!」
邪魔、の一言が、頭の芯に直撃したような。言葉にすると、そんな感じ。
その瞬間、我慢のメーターが一気に振り切れた。
掃除用具入れにダッシュして、バケツを引っ掴み、並々と水を入れて鈴村の元に戻る。こちらを見ることもなく、窒息したいのかというほど砂糖を口に詰め込む鈴村めがけて、日頃の恨みを込めつつ思い切りぶちまけた。
「正気に戻れっての!バカ!!」
勢い良く水が鈴村の顔を打つ。
黒髪に大量の水を滴らせたながら、ようやく顔が上がった。
「落ち着いた?」
鈴村は私の問いに返事はなかったけれど、こちらを見る目ははっきりと意思があった。
ほっと体の力を抜く――が。
「ぐ、ぅっ……!」
その直後に鈴村がうめき声を上げて、上半身を前に大きく折り曲げた。
「今度は何! なんなのー!!」
また砂糖か?! と思ったけれど、どうも様子がおかしい。
鈴村は片手でお腹を押さえ、もう片方で口を押さえている。その顔色は真っ青を通り越して、土色になっていた。
ああ――と心の中で相槌を打つ。そういうことか。
よいしょと鈴村の体を支えながら立ち上がらせて、洗い場のふちに体を寄りかからせ、そのまま後頭部をぐいと押して前かがみにさせた。
なにをさせようとしているのか鈴村にも伝わったようで、充血した目で私を睨みながら大きく首を横に振る。断固としてお断りだ、と顔全体で語っていた。だけど私だって「そうですか」と納得するわけにはいかない。ふるふると首を振って、その意思を拒否し、ぐいと洗い場の排水溝を指差した。
「鈴村、吐いて」
できるだけ優しく言ってあげたのに――鈴村は口をへの字にしてふいとそっぽを向いてしまった。
こ、こいつめ。心配してるのにまだそういう仕打ちをするか。
そりゃあ、恥ずかしいとか、プライドがどうとか、あるのかもしれないけど。
「体裁なんて気にしてる場合じゃないでしょうが!」
離れていこうとした体を捕まえて、鈴村の口の中に指を突っ込む。途端、支えていた体がぐっと前に傾いて、その胃の中のものをどっと私の手にぶちまけた。
すかさず空いている手で水道の蛇口を捻って水を流す。ついでに汚れてしまった自分の手も洗う。一度出してしまえば、もうこちらで強制する必要はなくて、鈴村は何度も体を震わせて嘔吐を繰り返していた。
その間に、冷凍庫から氷を取り出しコップに入れて水を注いだ。それから戸棚から大量のふきんと、掃除用具要れから雑巾をとりだした。
タオル代わりとまではいかないけど、ふきんでもたくさん使えば水気を取るぐらいはできるでしょ。たぶん。
激しくむせぶ音が、荒い息遣いにまで収まったところでコップとふきんを手渡そうとしたら、「呪い殺す気か!」と突っ込みたくなるほど、怒りを込めた目で睨みつけられた。
なにその態度。なぜ睨む。
呆れつつも、もう口論する力も残ってなくて、ふきんを台の上に放り出し、コップは鈴村の手に無理やり押し付けた。それから雑巾を手にして、鈴村にぶちまけた水の後始末に向かった。
床に広がっている水は、同じく床にこぼれている砂糖と混ざり合い、うっかり踏んでしまうと、べとべとと靴底にへばりついてとても嫌な感触だった。何度か拭き取らないと完全にきれいにはならなさそうだ。
――ああ、あっちの調理台のほうも片付けないと。塩が派手にこぼれてたもんなあ……
うんざりしながらも床を掃除していると、流し台に寄りかかっていた鈴村の体がよろめきつつ、ふらりふらりと動き始めた。
む? と思わず身構える。
けれど鈴村は私のほうでも、扉の方でもなく、掃除用具要れの方へ足を向けた。
どうやら、掃除を手伝おうというつもりらしい。
「いいよ、動かなくて」
ぴたりと鈴村の足が止まる。
「嘔吐って、全身運動並みのエネルギー使うって聞いたことあるし」
多少なりとも気遣って言ったのに、まるで胡散臭いものを見るような視線がじぃっと注がれた。あのね、失礼にもほどがあるぞ、あんたは。
「借りを作るのは御免だ」
「バカじゃないの」
素っ気無く言うと、じろりと目で反論される。
いつもだったらその眼力に押されて口を閉じるところだけど、今回ばかりは黙っていられなかった。
「バカだからバカって言ったの」
こちらは口で、やり返しだ。
「分からないならもっとはっきり言おうか。動いて、また吐き気がぶりかえしてきたらどうするの? 床に吐かれでもしたら、すごいメーワク」
きつすぎるかなーとは思ったけど、心配してるのよ? なんてしおらしく言っても、この状態の鈴村って絶対言うこと聞かなさそうだし、逆に鼻で哂われそう。それに迷惑かけられたのは本当のことだから、お互い様だ。
放って掃除を続けていると、鈴村は黙ったまま椅子に腰掛けた。どうやら大人しくすることにしたらしい。
「鈴村」
「……なんだ」
「この際だから取り繕わずに聞くけど。それ、嗜好とかそういう次元超えてると思う。病院に行って、見てもらったほうがいいんじゃないの?」
「精神科か? 心療内科か? そんなところに行くぐらいなら、糖分の取りすぎで病気になった方がマシだな。第一、家の者だって許さない」
一休みしたからか、大分調子が戻ってきているっぽい。その証拠に態度が偉そうだ。
まったくこいつは。ため息をつきつつ、手を動かす。八つ当たり気味に、雑巾をぎゅうぎゅうと床に押し付けた。
「さっきの、なんだったの? いつもは……もう少し余裕あるじゃない」
食べるのに夢中なのは同じだけど、いつもなら、こちらの言うことに受け答えするぐらいの余裕はあった。なのにさっきの鈴村は、何か言っても怒鳴り返して暴れるだけで――ちゃんと私が言ったことを理解していたかどうかも怪しい。
鈴村は少し目を伏せて、ぐっと唇を噛んだ。
言いたくないんだろう。でもここまでやっておいて、黙ったままなんて納得できない。それに次また同じようなことになったら、どう対処すればいいか困ってしまう。今回は私一人で止められたけれど、次もそう出来る保障はないし、かといって、この食癖を知らない第三者に助けを求めるのは、鈴村的に絶対にやって欲しくないことだろうし……
ひたすらに辛抱強く、相手が口を開くまで待っていると、やがて鈴村が重い口を開いた。
「いつもは、ある程度歯止めが利くが、さっきのように不意に『くる』ことがある。そうすると、我を忘れるらしい」
「らしいじゃなくて、吹っ飛んでたよ。大体なんでここに来るの? 生徒会室にお菓子とかあるでしょ」
「とっさに思いついたのがここだったんだから仕方ないだろう。とにかく口の中を誤魔化すために砂糖水を作ろうと」
「なにそれ」
「言葉の通りだ、それ以上でもそれ以下でもない」
「ええと……つまりお湯とかに砂糖を溶かして……?」
「飲む」
「う……」
想像たら胸の辺りが気持ち悪くなった。
「我慢できずに、とにかく砂糖が目に入って」
「はあ……そのまま掴んで食べた、と。本当に、甘いものならなんでもいいわけ」
「味に拘らないのは発作的な場合だけだ。そもそもお前がここに居ると思ったのに、居ないから」
む、と思わず手を止める。
なに、その私が悪いみたいな言い方は。
「さぼってたわけじゃないよ、ちゃんと男子バスケ部に行って本日のノルマをこなしてたの! ああもう、やなこと思い出しちゃったじゃない」
ふん、と鈴村は鼻を鳴らした。
「不味いとでも言われたか」
「ぐは……っ!」
本当に人の弱点をつつくのは上手いというか。なんといういか。
しぶしぶ事情を話したら、目を見開いて信じられないという顔をされてしまった。
「おにぎりを不味いといわれるお前の料理の腕は、いったいどうなってるんだ」
「な、何度も味見はしたもん。他の人も本当に不味くなかったって言ってくれたし……まあお世辞かもしれないけど……口に合わなかったのは一人だけだったよ」
具が悪かったのか。お米のたき方が駄目だったのか。原因不明。ああ何度思い出しても胃が痛くなる。
「改良して再チャレンジしなきゃと思ってここに戻ってきたら、鈴村が大暴れしてたんじゃない」
理解できた? と、わざと嫌味も交えてちくりと言ってやる。
鈴村は眉を顰めて険しい顔をしたけれど、口にしたのは私への文句ではなかった。
「その、不味いと言った奴は?」
「え? ああ、畑君て人。同じ二年。下の名前は知らない……今まで話したことないし」
ふうん、と返事をして鈴村はなにか考え込んでいるようだった。
話しかけても無視されるだろうから、放って鞄の中を探ってみた。水は中にまでしみていたけれど、教科書やノートなんかはぎりぎり無事のよう。濡れてしまったものの中から飴の入った袋をとりだして、一つ口の中に放り込んだ。
「上原」
なに、と振り向くと、鈴村は当然という顔で手を出している。
あんたって奴は……
半目で睨んだけれど、効き目なし。諦めて袋の中から飴を二個取り出して鈴村に手渡した。
「包装が濡れてる」
「鈴村が私の鞄を流し台に放り込んだからでしょーがっ! 中身は無事なんだからいいじゃない。嫌だったら返してもらうけど」
「嫌だとは言ってない」
鈴村はさっさと包装を破って、二個とも口に放り込み、すぐさまがりがりと噛み砕き始めた。
「ちょっ……噛むのやめなよ。歯を痛めるとか、虫歯になりやすくなるとか、その手の話、聞いたことないの?」
言うと、ぴたりと止んだ。「そうだったか?」と目をぱちぱちさせている。
ついこの前は犬みたいだと思ったけれど……ああそうそう、悪魔だとも思ったけれど。今はまるで、子供みたいだ。それも、すっっっごく、どうしようもなく、手のかかるやつ。そう考えてる傍から、「もっと飴を寄こせ」とか言ってるし。みたい、じゃなくて子供だ子供。確定。子供は悪魔だとも言うし、ぴったりじゃんか。
濡れた服や髪が乾かないうちは鈴村もここから出て行かないだろうから、まだうるさく言ってきそうだし、汚れてしまった室内の片付けは残ってるし、携帯をチェックしてみたら拓海君からメールが着ているし。
――で、何から手をつければいいの、ホントに。
はあ、と大きなため息をついたら、即座に睨まれる。だから今度は心の中で、特大のため息をついた。