生徒会室は、三棟並んだ普通教棟の東側、最上階の四階。一番端の奥まった場所にある。
窓からは常時涼しい風が入り、運動場もテニスコートも、敷地内の端まで見渡せる。階段上りが苦にならない体力があるのならば、勉強するには一番環境のいい場所かもしれない。
そんな生徒会室の扉の前に立って、まず深呼吸。乱れた呼吸を整えてから「失礼します」と、声を掛けた。
「調理部の代表者ですが、書類を提出しに来ました」
けれど扉の向こうから返ってくるのは沈黙のみ。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー」
今度は少し大きめの声で呼びかけてみたが、それでも答えは返って来ない。
もしかして今日はもう帰ってしまったのかも。
引き戸の扉にそっと手を掛けると、鍵はかかっておらず、するりと抵抗無く開いた。
「失礼します、存続願いを提出しに来たんですけど……?」
室内はしんと静まり返っていて、人の姿はなかった。
正面には、大き目の事務用机と長机がひとつずつ。割と広い室内の隅にはついたてで区切られた空間があって、小さな机とそれを挟んで二人がけのソファが二つ置かれていた。ちょっとした応接室といった雰囲気だ。そのついたてのすぐ横には半開きになった扉があり、奥にもうひとつ部屋があることが伺えた。
――へー、生徒会って二部屋も使えるんだ。
どういう部屋なんだろうという、小さな好奇心が沸いてくる。
どうしてもそれに勝てなくて、人が居ないかどうか確認する為だからと自分に言い訳しながら、奥の部屋に足を踏み入れた。中は大して広くはなく、壁に並んだキャビネットと大きな机が二つ置かれているだけ。そしてやはり人の姿はない。
「それにしても、ずいぶんきったない机」
ぐるりと室内を見渡してから、独りごちた。
どちらの机の上にも書類やらファイルバインダーやら、とにかくいろいろなものが山積みにされている。一方は完全に散らかり放題、もう片方は書類の向きをそろえるなど努力の跡が多少見られるものの、はっきりいって五十歩百歩だ。
「届を置いて帰るとしたら、こっちの部屋はやめて置いた方がいいよね」
整理整頓されている机の上に置いておいた方が、見つけてもらいやすいはず。他の書類にまぎれて見落とされたりして、調理部からの届出は受けていません、なんてことになったら目も当てられない。そうと決まればさっさと出すもの出して早く帰ろう――と思っていたのだけれど、机の上に置かれた書類の山、その中の一枚に望の視線が釘付けになった。
『予算会議案件について』
この文字が、書類の隙間からこっそりと覗いている。
「もしかして、これって」
書類の右上には二つの赤い判、「持ち出し禁」と「関係者以外閲覧禁」と判が押されていた。間違いなく私なんかが見てはいけないもので、そしてなにより重要なことが書かれているという証でもある。
……会議に出るメンバーとかのことが、書かれてたり、して。
途端、心臓が大きな音を立て始めた。それはまるで耳のすぐ傍で鳴っているかのような煩さだった。
部屋には私以外誰も居ないから、今ここで覗き見ても、元に戻しておけば誰にもばれないはず。
そろそろと手を伸ばし、紙の端を掴む。
するとその瞬間、隣の部屋で勢い良く扉が開かれる音がした。
「ぅ……っ!?」
体がぎゅっと縮こまる。咄嗟に悲鳴を上げそうになり、手で口を塞いだ。
扉は開けたときよりも荒々しい音を立てて閉められ、がちり、と鍵のおろされる音がこちらの部屋まで届いた。
こっちの部屋に来られたらどうしたらいいのか。言い訳なんて考え付かない。
慌てて周りを見渡してみても、隠れられるような場所はない。けれどそんな心配を他所に、隣の部屋からは慌しい音が聞こえるのみで、誰かがこちらにやって来るような気配はなかった。そして数分後、それらの物音は一切聞こえなくなった。
沈黙と共に、心拍数も幾分落ち着きを取り戻し、頭にも考えるだけの冷静さが戻ってくる。
ちょっと待ってよ。そういえば、さっき確かに鍵を閉めたよね。なんでそんなことを?
機密の文書を書き上げなければいけないとか。でも、普通の学校の生徒会でそんな大層ものあるんだろうか。誰にも邪魔されず、集中してやりたい仕事があるから?だからといって普通、鍵まで閉めないんじゃないか。
私は入り口から半分顔を出し、こっそりと隣の部屋を覗き見た。
ついたての向こう側、ソファに腰掛けている人影が見える。再び心臓が跳ね上がった。慌てて体を引っ込め、どうしようとその場にしゃがみ込む。そして、『それ』に気付いた。
音が、聞こえるのだ。
水の滴る音かと思ったけど――そうじゃない。何かを食べている、というより貪っている音だ。
あー、こういうホラーゲームあったなー、と。こんなときに思い出したくないようなことを思い出した。近づいてみたら、ゾンビが死肉を食べてましたっていう一シーンだ。そんな馬鹿なと思いつつも、耳に届くその音はまさにそれとしか言いようが無かった。
とにかく、部屋から出なければ。
何食わぬ顔をして声をかけたほうがいいだろうか。室内に誰もいなかったので勝手に入りましたと伝えて――頭の片隅で浮かんだその案は、相変わらず聞こえてくる嫌な音によって吹き飛ばされた。
だめだ、話し合うなんて怖すぎる。
幸いといっていいかどうか、相手は食べ物に夢中のようだから、扉まで走り、鍵開け、そのままダッシュすれば逃げ切れるかもしれない。
一度様子を伺って、相手が立ち上がる気配が無いのを確かめてから、恐る恐る足を踏み出した。右足、左足、一歩ずつ。物音を立てないよう慎重に、可能な限り扉の近くへと進む。そして、もう身を隠す場所は無いという位置まで距離まで詰めると、よし、と心の中で気合を入れ、扉へと駆け出した。
けれど一、二歩足を動かしたところで、ぐしゃりと何かを握り締める音がして、思わず足を止め、ついたての中に目を向けてしまった。
そこに居たのは、見知った人物。
つい最近、講堂の壇上で見かけた――生徒会副会長、鈴村聡二朗その人だった。
ソファに腰掛けている彼の口の周りにはべったりとクリームやら食べかすやらが付着していて、だらんと下げられた両手には、食べかけのシュークリームが潰された形で握られていた。机の上にはコンビニの袋とぶちまけられたその中身が転がっている。シュークリーム、ケーキ、プリン、豆大福、アイスなどなど、すべて菓子類だ。
――なに、これ。
異様な光景に息を呑む。鈴原君の口の周りについているのは真っ赤な血ではなく、白いカスタードクリーム。普段なら笑い飛ばせるようなシチュエーションだけれど、この時ばかりは笑いなんか一切浮かばず、逆に心に競りあがってきたのはどうしようもない恐怖心だった。
変だよね、変だ。絶対変。
息を吸い込むと、引きつけを起こしたように私の喉がひゅっと音を立てる。驚いているのは向こうも同じようで、冷たい感じのする切れ長の目が目一杯開かれ、こちらを凝視していた。
間違いない。私は、見ちゃいけないものを、見てしまったんだ。
一歩後ろに足を退くと、鈴村君はたった今目が覚めたというように立ち上がった。
やばい、捕まえられる――頭に危険信号が鳴り響き、扉に飛びつくようにして駆け寄った。しっかりと閉められた鍵を夢中で回し、叩き壊すほどの勢いで扉を開く。
「待て!」
廊下を走って逃げる私の背中に、怒鳴り声が投げつけられた。背後から追ってくる気配も感じた。けれど止まれるはずが無い。怖い、怖すぎる。
振り返らずにひたすら走り続けた。玄関で靴を掴み、履き替えないで上履きのまま校門を飛び出す。まだ校内に残っていた生徒たちが怪訝な表情で私を見ていたけれど、そんなことを気に留めている余裕は無かった。ただもう、恐ろしくて。延々と追いかけられて来られているような気がして、家が見えてくるまでとても安心することはできなかった。
こんな長距離を、ここまで真剣に走ったことは生まれてから一度も無い。
もう息が続かない、心臓が止まるかも、という限界に達しながらも、なんとか家の玄関まで到着し、転がり込むように家に入った。
途端、くらりと視界が歪む。
「な、なんだったの、あれ……」
日頃の運動不足のつけが出てきたということもあるだろうが、それよりも精神的打撃の方が大きかった。
とてもじゃないけど今夜は、到底まともに眠れそうに無い。
はああ、と大きなため息をついて、へなへなとその場に膝をついた。体も心も疲れていたけれど、恐怖と興奮で心臓が高鳴りっぱなしだった。
結局、お母さんに「あんた、一体なにやってんの」と冷めた一言を投げかけられるまで、私は呆けたように玄関に座り込んでいた。