目覚まし時計が鳴るまであと五分というちょうどその時、ベッドの中で眠っていた私はくわっと目を見開いた。かけ布団を跳ね飛ばし、バネのような動きで上半身を起こす。荒い呼吸で周りを見渡して、今いる場所が自分の部屋の中だと確認すると、盛大な安堵の溜息を漏らした。
……ゾンビと無表情な鈴村君に、ひたすら追いかけられる夢を見てしまった。
言葉にするとギャグそのものなんだけど、夢の中にいる間は本当に怖かったのだ。眠って、悪夢を見て、目が覚めて、眠って。夜通しこれの繰り返し。当然、まともな睡眠は取れていない。鏡を見ると、目の下にはうっすらと隈ができていた。
大食らいとか、そういう微笑ましいものじゃなかった。
それぐらいだったら、ここまで怯えたりなんかしない。病的な、常軌を逸している雰囲気だった。
鈴村君のあの態度からして、昨日の出来事は他人に知られては困る事だったんだろう。部屋に鍵をかけていたのも、食べている途中に誰かが不意に入ってきたりしないようとの、用心だったはず。
うあー、学校行きたくないなーい。
「待て」と言われたのに逃げてしまったのだ。今日学校に行ったら、鈴村君に呼び出されて、口止めされそうな気がする。昨日みたいな怖い顔ですごまれるなんて嫌過ぎだ。
かといって毎日逃げ続けているわけにもいかないしな……
なにせ同じ学校なのだし。こんなことで不登校になんかなる気は無い。
ピピピピ、と大きな音で鳴り出した目覚まし時計をやや乱暴に止める。そして気合を入れるように大きな深呼吸をして、ベッドから抜け出した。
校門のところで待ち伏せしていないか、玄関では?教室では?とさんざんビクつきながら登校したのに、鈴村君の影も形も無かった。変わったことも特に何も無い。強いて言えば、挙動不審な私の様子にクラスメイトが変なものを見るような視線を送っていたことぐらいだ。
もしかして無視していようってコトなのかもね。鈴村君と私じゃ、日頃接点ないし。
そうして何事も無く、いつも通り時間は過ぎていった。
――昼休みまでは。
栞と一緒にお弁当を食べ終え、食後のお菓子を鞄から取り出そうとした時だった。妙な視線を感じて、ふと廊下に目をやった。
ざわつく人通りの多い昼休みの廊下。その中に鈴村君が居た。
休み時間のなごやかな空気の中、ひとり厳しい表情を張り付かせていて、はっきりいってかなり浮いている。
『いつもお面をつけてるみたいな人だよ』
鈴村君のことをそういうふうに言う人は結構多い。その理由がここにきて嫌というほど理解できた。般若の面だ、あれは。つか、来たよ。とうとう来たよ。
身構える私に反して、鈴村君はゆっくりと教室の前を通り過ぎていく。
単に通りかかっただけなのかと一瞬ほっとしかけたその直後、鈴村君はちらりと教室内に視線を向け、私と目を合わせると、ちょっと来いとばかりに顎をしゃくった。
その間、ほんの一瞬。無駄の無い彼の動きに、誰も気付いた様子は無い。だから私も気付かなかった振りをして、このまま無視することも出来るわけだ、が……無視したらどう考えてもまずいことになる気がする。本能が警鐘鳴らしまくっている。
ああもう最悪。
しぶしぶ席を立つと、お菓子をつまんでいた栞がちょこんと首をかしげた。
「望、トイレ?」
「違う違う。染井先生に連絡しなきゃいけないことがあったの忘れてた。ちょっと職員室行って来るよ」
「放課後じゃ駄目なの?」
「う、うん、ほら部活のことだから切羽詰ってんの」
栞は勘がいい。下手な嘘だとばれたかも、と心配になったけど、
「あーなるほどね、それは仕方が無いわ」
と、あっさりと納得してしまった。
今の自分はそんなに切羽詰って見えるのか、と微妙な気持ちになりながらも、私は鈴村君を追いかけるために教室を後にした。
鈴村君は一度だけ後ろを振り返って私の姿を確認すると、すぐに前に視線を戻し、何事も無かったかのように廊下を歩きだした。私はその後を一定の距離を保ったままついていく。一階に降り、渡り廊下を通り、人の気配がしない中庭の隅まで来て、前を歩いていた彼がようやく足を止めた。
「上原さん」
振り返るなり、酷く冷たい声で名を呼ばれる。
まさか名前を知られているとは思わなかったから、私はびくぅっと体を震わせた。
「な、なに」
「昨日見たことを誰かに言ったか?」
言えるわけが無い。言ってません。喋ってません、と。
首の筋を違えんばかりの勢いで、ぶんぶんとかぶりを振った。
そうか、と鈴村君は頷く。
「今後も、ずっとそうやって黙っているんだ。もし、誰かに喋ったりしたら……」
「した、ら?」
「まずいことになるのは、君のほうだからな」
まずことになる――その言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
どうして自分がまずいことになるのか。醜態を見せたのは、相手のはずなのに。
これってもしかしなくても、脅しじゃないの?!
だめだ。今にも泣き出しそうだ。いろんな意味で。
「……な、なんで?」
「君はあの時、どうしてあそこにいた?」
「書類を、出しに行ったんだけど、誰も居なくて。奥の部屋に誰か居ないかなって」
一歩、鈴村君が私の方に足を踏み出した。
「それじゃどうして、俺が入ってきた時に君はすぐに出てこなかったんだ」
「それは……」
「隠れていたんだろう。そして隠れた理由は、君がやましいことをしていたからじゃないのか」
言いながら、鈴村君はさらに詰め寄る。
「君は調理部だそうだな」
「なぜそれを! 調べたの?!」
ほんの数秒間、沈黙。
「……昨日、存続願いの書類を落として行っただろうが」
鈴村君が目を細めて私を見た。
「まさか、気付いてなかったのか」
「ああっ?!」
「本当に気づいていなかったんだな」
鈴村君はさきほどよりもさらに目を細め、心底呆れきったという視線を投げてきた。
――ぜったいこいつ馬鹿だ、と思ってる。違いない。そんな目だ。
それならいっそ直接そう言ってくれよと思いつつ、私は顔を伏せ、その厳しい視線から逃れた。
「俺の記憶では確か、調理部は今度の予算会議で廃部になる候補の一つだったな。書類を出しに来たってことは、潰されては困るんだろう。そうならないように、君としては少しでも情報が欲しいはずだ――ああそう言えば、書類の山の中には予算会議の予定内容が書かれているものがあったよ」
俯いてる私の頭上から振ってくる声は、まったくもって容赦ない。
核心はつかずに、けれど殆ど核心を言ったも同然のような話の進め方。
鈴村君て人が、こんな陰険だったとは……!
手や背中の辺りからは、じっとりと嫌な汗が滲んでくる。けれど心の中では、涙やら冷や汗やらが滝のようにドウドウと流れていた。
「上原さん」
名前を呼ばれて、びくつきながら頭をあげた。すると、すぐ目の前に鈴村君の顔があった。
「質問を変えようか。君はあの部屋で、何をしようとしてた?」
険しさを宿した瞳がまっすぐ射抜くように私を睨みつけている。蛇だ、蛇。そして私はその蛇ににらまれた蛙だ。後退ろうとした私の腕を、鈴村君は強い力で捕らえた。
「余計なことを喋らなければ、俺もこの件は見逃しておこう。だがもし喋ったら……俺は全力で君をこの学校にいられなくさせてやる」
今度はぶんぶんと首を縦に振った。鈴村君の言っていることははったりなどではない。それは目を見れば分かる。何度も頷く私を見て、鈴村君は少し安心したように溜息を落とし、掴んでいた腕を開放した。
「話はそれだけだ。くれぐれも俺の言ったことを忘れないように」
念を押すように付け加えてから、それじゃ、と鈴村君は構内に戻っていった。放心状態の私を、その場に放ったらかしで。
その後はどうやって教室まで戻ったのか、記憶に無い。
気付いた時には、栞にがゆさゆさと勢い良く肩を揺さぶられていた。
顔色やばい、保健室に行って来い、すぐ行って来い、と栞は繰り返す。どさくさに紛れて、顔がヤバイ、とも言った気がする。いや、気がする、じゃなくて、絶対言った。
顔うんぬんは余計なお世話だとして。今の私の状況は顔色どころじゃなくもっとヤバいのよ、と麻痺した頭でぼんやりと考える。
――駄目だ。倒れそう。本当に。
素直に栞の勧めに従って保健室に行くと、保健医の木島先生はすんなりとベッドで休ませてくれた。
いつもはサボりは駄目だからねと、問診のようなことをするのに。そして異常なしと判断すると、無情にも部屋から追い出したりするのに。私はそんなにも体調悪そうに見えたのか。
とにかくベッドで一息ついて落ち着こうと思っていたのだけれど、ふかふかの布団寝転んだ途端、一気に眠気が襲ってきて、結局、午後の授業はすべて寝て過ごしてしまった。
その安眠を破ったのは、耳障りな、何か金物の落ちる音。それからやけに慌てた様子の声。ごめんなさい、すみませんと、しきりに謝っている。
染井先生の声だ。それにあの慌てぶりからしても間違いない。
はれぼったい瞼をこすりながら上半身を起こすと、
「上原、入ってもいいかー」
と、しきりのカーテンの向こう側から間延びした声がした。
「あ。やっぱり染井センセ?いいですよ、どうぞ」
ぱたぱたと一応髪を整えてから言う。するとカーテンが遠慮がちに開き、そこから染井先生がはにかんだ笑顔を見せた。
「先生、なにかひっくり返したんですか?」
「うん、ちょっと、足をひっかけちゃって。うるさかった?」
ばつが悪そうに照れ笑いする。けれどちょっと不安そうな表情になって、首をかしげた。
「午後ずっと保健室で休んでるって聞いたから。大丈夫か?」
「あー大したこと無いんです、ただの……立ちくらみですから」
「そうか?無理するなよ。少し、顔色悪いみたいだし、熱は」
言いながら、染井先生は私の額にぺたりと手をあてた。まさかそんなことをされるとは思わなかったから、ぎょっとして小さく声を漏らした。
「先生?」
「え? やっぱり気分悪い?」
先生はきょとんとして、私の顔を覗き込む。が、次の瞬間、顔を真っ青して固まった。
「おおおおぉぉぉ!? ごめん! じゃなくて、すまない上原!!」
次いで、今度はぼうっと火がついたように赤く染まる。
先生こそ立ちくらみを起こすんじゃないか、とちょっと心配になった。
「不快にさせたら悪かった! わざとじゃないんだ、断じて違うんだ……!」
「分かってますって。ちょっと驚いただけです。それに、胸に触られたってわけじゃないんだし大したことじゃないですよ」
「む、胸って! 何を言い出すんだ上原!」
「先生、先生。こういう時は慌てれば慌てるほど怪しいですから。落ち着いて」
こういう話も通じないのか。純情そうには見えたけれど、本当に見た目どおり――というか、ここまでだとは思わなかった。先生のファンの子が見たら、黄色い声を上げて悶えそうだ。
「でも、どうしたんですか、わざわざこんなとこまで。あ、部活のことですか?」
「え? あ」
先生はぱちりと目を瞬かせる。それから、気を取り直すように真っ赤になっている頬をぱちぱちと叩いて言った。
「あ、うんそう、部活のこと。さっき生徒会長の湯川が俺のところに来たんだけどな」
生徒会、の言葉聞いた瞬間、胃がきりりと締め付けられる。うぐ、と僅かに顔をしかめたが、先生はそのことに気付いていないようで、のんびりした調子で先を続けた。
「存続願いの記載にミスがあるから、生徒会室まで来てくれってさ。俺が代わりに行くよって言ったんだけど、どうしても本人じゃないと駄目だって言うんだよ」
存続願いの記載漏れ?と私は首をかしげた。
ミスがあったのなら、鈴村君も当然気付いてるはずだけど。一言ぐらい言いそうなものなのに。
呼び出しの理由がどうにも胡散臭い。けれど、どうして生徒会長に呼び出されるのか。まったく身に覚えが無かった。
――まさか、本当に呼び出しをかけたのは鈴村君で、湯川君はいいように使われてるだけなのかも。
この想像のほうがよっぽど説得力がある。ということは、これは本日二度目の呼び出しというやつだろうか。あれだけ釘を刺したくせにまだ足りないのか。
「どう? 行けそうか?」
ちっとも行けそうじゃないですよと応えたいところだが、断ったら何をされるか分からない。
……今度はなんて脅されるんだろう。脅されるだけで済めばいい方なのかなあ。
私はこっそり重苦しい溜息をついてから「行ってきます」と頷いた。