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 放課後の教室にいるのは、私――斉藤春と、久住志郎くんの二人だけだ。
 お決まりのように、西日の差す室内で、窓の外からは運動部の掛け声なんかが聞こえて、カーテンはオレンジ色に燃えて、そして。  私たち二人は、あと数センチで唇が触れそうというところまで接近して、向かい合っている。

 久住くんと付き合いはじめたのは一ヶ月前。
 彼氏いない暦=年齢という自慢にならない私の話を友達が持ち出して、それを聞いた男子が「じゃあ久住と付き合ってみたら?」なんて軽いノリで言い出したのだ。
 そして当の久住くんは、表情をまったく変えずに、
「べつに、いいけど」
 と、あっさり応えてしまった。そして私も、「うん」と首を縦に振ってしまった。
 夢見るようなシチュエーションもなにもない。これがきっかけだ。
 彼とはそれまでほとんど口を利いたことがなかったのだけれど、話して見ると、見た目の無表情さとは違って、のんびりしているというか、のほほんとしているというか。大爆笑ってことはないけど、にんまり笑ってしまうようなことが多い。
 なにより、不思議君になってしまうことがあるのだ。
 たとえば、唐突に海が見たいなどと言い出して、でも出かけていくのは面倒だからと大豆を入れたざるを私の目の前に持ってきて、ざーざーと音を鳴らしはじめたりする。音だけでも海気分を味わえるかと思ったのだそうだ。
 何を考えてるのか分からない。不思議、天然系の人とは仲良くなれない――大抵、そういうのって装ってるだけだったりするから――という理由から、最初はいつ別れ話を持ち出そうかと悩んでいたのだけれど、気付いたらすっかり久住くんという人に嵌っていた。
 『嫌よ嫌よも好きのうち』なんて、時代劇で悪代官が街娘を襲う時に言うお決まり台詞があるけど、なんかその気持ちが分かったというか、「なるほどこれが! これがそうなのか!」と、しみじみ同調したりして。我ながらどんな女だ。大分私も毒されてるような気がする。
 大体、久住くんは私でいいのか、友達の手前上無理してつきあってないか。
 あまりにすんなりと受け入れたから、逆に心配になって尋ねたことがあるんだけれども、
「斉藤がいいよ」
 ――だそうだ。
 あれですよ。彼氏いなかった女にこれは禁句ですよ。
 騙されてるかもしれなくても、ついその気になってしまうじゃないですか。
 とにかくここ一ヶ月間は、一緒に帰ったり、遊びに行ったり――ごく普通に付き合いはじめにやりそうなことは一通り終わらせた。
 けれど、今日の状況みたいな……その手の、ことは、何もなかったわけで。
 友達からは「一ヶ月も経って手を繋いだだけなんて信じられない!」と散々言われた。私たちは中学生らしい交際をしているのですよ、と悔し紛れに反論した……けれども。自分でも、ここまで何も無いのは私になにか欠陥でもあるんじゃないかとか、からかわれてるだけだったりして、とか、ものすごいネガティブ思想に陥り始めたところだったのだ。

 そして、今、この瞬間に至る。

 普通に友達の話をしたり、昨日見たテレビのこと、などなど。雑談していたのがほんの数分前。ふっと会話が途切れて、微妙な空気が流れた後、久住くんの表情が一気に真剣なものになった。
 まあその、二人きりだっていう状況から、もしかするともしかするかなあとは思っていたりはしたのだけれど。
 その顔つきがあんまりにも真面目なもので――少し怖いと感じた。
 うわこれ来たよ、どうしよ、逃げたいかも、とも考えた。逃げたとしても、久住くんは笑って許してくれるかもしれない。けれど、私だったら間違いなくショックを受ける。キスしようとして逃げられたら泣きますよ、確実に。
 だから、ぐぐっと近づいてきた彼の存在に恐怖を感じつつ、根性出してぎゅっと目をつぶった。
 ええい来るなら来い、と。
 閉じている瞼の裏側に西日のせいでオレンジ色の光が見えた。
 その光が消え、暗くなる。ああ久住くんの顔がすぐ傍にあって、影になってるからだなあと思ったその瞬間、鼻と唇に吐息が掠めた。生暖かい空気が、ふうって。微妙にくすぐったかったけれども、ここでひくひく鼻を動かすのも変だし、ぐっとガマンする。
 それから一拍ほどの間。
 あれ? まだ? と目を開けようとした途端、唇にふにゃっとしたものが触れた。
 あー、なんだっけ、これ。
 あ。あれだ、お菓子のグミ。うん、あれがあたってるみたいな。
 しっかり閉じている私の唇に、同じようにがっちり閉じている久住くんの唇があたっている。
 ――待て待て、漫画とかでは確か、キスする時どっちも唇を開いていたような気がするよ?
 でもこのくっついている状態のままで唇開くのは、かなり勇気がいる、ような……
 それに、脇にびっちりと張り付いて硬直している私の両腕はどうしたら。ここはやっぱり相手の腕とか服の裾とか握ってればいいのか。きゅって、かわいい感じで。

 ていうか。
 今、私たち、キスしているんだよね。
 教室で。漫画チックなシチュエーションで、キスしているわけだね。

 ……わあ。
 わーわー! ありえないありえないなんだこりゃー!
 だってほら、あれだよ、わたしが、あの久住くんとキ、キキキ、キ……キス……してるんだよ。一ヶ月前まではまともに話した事もなかったのに。その私たちが口と口あわせて、キスしてる! 変だよね、変だ変。おかしい、いろいろとおかしい。考えれば考えるほど奇妙な状況。
 ――あ、ちょっと笑ってしまいそう、な。
 いやいやいや! やばいそれは駄目だって。我慢しろ私。我慢ガマン……
 頭の中は満載したゴミ箱をぶちまけたように混乱して、錯乱して、なにもかもごちゃまぜな中、『我慢』の二文字が拡大フォントで乗っかってる感じ。文字の配色は赤色に黄色縁取りの危険色。って、我ながら意味がわからないよ!
 限界値に達していた私の頬を久住くんの睫がくすぐる。
 途端なにかがぷちんと弾けた。
「ふ……ぉぶひゃー!」
 両腕で久住くんを引き剥がしたとたん、私の鼻から口から息が怒涛のように噴出した。調子はずれの笛のような音が鳴る。
 やってしまったー! と思うと同時に、そのことが余計に私の笑いのつぼにはまってしまった。
 この状況で笑い出すなんてありえない。それは、よーく分かってる。けど、もうなにもかもが可笑しいというか。大人がよく言うじゃない、箸が転がっても面白がる年頃なんだ、っての。きっとあれだ。あれなんだ。
 笑い転げる私に久住くんは思い切り目を丸くして――その後、深々とため息をついた。
「……マジでありえない」
「ごめん、ほんとごめ……なんか、妙に笑いがこみ上げてきて……ひ、ひっ、とまらな、く、て、おなか痛!」
「最悪だ」
 低めの声でそう言って、久住くんは私に背を向けた。やっぱり怒らせてしまったかと、笑いが一気に消え、心臓が縮み上がったのだけれど、よく見れば彼の肩も背中も、体全体がぶるぶる震えていた。
「く、久住くん」
「笑うなんてさいあ……ブフッ! おんなとして、て、ど、ど……く、グハッ」
「そっちだって、笑ってるじゃん!」
「だって斉藤緊張しすぎ! 頬とか瞼がぴくぴくしてるしさー、ガマンしてたのに、斉藤の笑いが伝染したんだよ! う、うう、腹筋痛くなってきた……!」
「反省してる。ホントにごめん、悪いとは思ってるんだけど、なんか、笑いがこみ上げてきて、ガマンできなくて」
「いや、その気持ちは分からないでもないっつーか」
 久住くんの目には笑いすぎで涙まで滲んでいる。それを人差し指で拭い、一呼吸付いて言った。
「ほら、緊張がピークに達すると、笑いがこみ上げてくるって言うから。たぶんそれだ」
 うそだ、と今度は私が目を見開く。
「……久住くん緊張してた? すごい慣れてるみたいに見えたけど」
「俺の場合は緊張ていうか……興奮、性欲、発情?」
「ちょっと!」
「欲情しまくりっていうか」
「やめてー! 生々しすぎる!」
 久住くんは高校球児のような爽やかな笑顔を振りまきつつ、本能丸出しのものすごくストレートなセリフをぽんぽん喋りだす。
 もう勘弁して! と半泣きでお願いしたら、
「誘ってるみたい、その顔」
 とか、無邪気な笑みで返された。
 ……本物だと思っていたけれど、久住くん、偽不思議君の部類なのかもしれない。
「なんか、力抜けたよ」
「それは良かった」
 はじめてのキスは思い出になるような、友達に自慢できるような、きれいで格好いいのを――なんて夢見ていた部分があったのだけれど、気負っていた自分が馬鹿みたいだ。馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくて、笑える。
 まあこれはこれで、思い出にはなるな。いろんな意味で。
「斉藤」
 名前を呼ばれて、なに?と顔を上げると、至近距離に久住くんの顔があった。
 半分閉じかけた瞼とか、長いまつげとかが、目の前にある。この表情、色っぽく見えるな、なんて考えながらごく自然に、私は目を閉じた。
 久住くんの唇は柔らかくて暖かい。グミとか言って、酷い例えだったな、と反省する。
 でもさっきのキスで触れた彼の唇の温度は確かに低くて――はっきり言えば冷たかった。だから物質的なもののように感じたのだけれど、あれはもしかしなくても久住くんが緊張してたからだろうか。
 私も、久住くんも、さっきみたいに唇をがっちりと閉じることなく、少し、遠慮がちに開いて相手を受け入れている。うん、頭に思い描いていた通りのキスだ。
 不意に、笑いたくなる。といってもさっきみたいな大爆笑じゃなくて、なんか、にっこりっていうか。にんまり、っていうか。うーん、にやにや、も入ってるかな。愛情表現で唇を合わせる意味が分かったかもしれない。だってこんなに嬉しい、楽しい。気持ちいい。
一度目とあまりに違いすぎて、びっくりする。唇が離れる瞬間、「もう終わりなのか」なんて寂しく感じてしまったりして、二度びっくりした。

 目を開けて、鼻がぶつかるくらいの距離まで顔を離して、久住くんの顔を覗き込む。そうしたらぴたりと、視線が合わさった。
 今度は吹き出すことはお互い無く。ただ探り合うような、様子を伺うような視線が何度か交錯してから。

 ――ああこれで正解なんだ、と感じて。

 頬を真っ赤に染めたまま、私も、久住くんも、にっこりと笑い合ったのだった。

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