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 塾の帰りに友達と話していた時、夏服の話になった。
「夏服になると、やらしい目つきの男がいて気持ちが悪い」と、彼女は言った。
 その手のヤツは、バレないようにこっそりと見ているつもりなのかもしれないけど、見られている方は、体に纏わりつくような視線ですぐに分かるんだから、と。
「ほんっとに最低。そういう奴って心底うざいよね」
 意見を求めてきた彼女に、わたしは「そうだね」とあいまいに返事することしか出来なかった。

「おい、今ので何度目だよ、そのセリフ」
 季節的には初夏。しかし、気温は30度を軽く超えていた金曜日の下校途中。
 隣から、うんざりするような声が降ってきた。
「……今のって?」
 少し見上げて、隣にいる透に問いかけると、「はあ?」と問い返された。
「自覚無いのか?今、暑いってぼやいただろ、お前」
「ああ……そうだったの、ごめん」
 なんとなく謝ると、透は「謝れとは言ってない」だの、「暑い暑いと思ってるから暑いんだ」だの、ぶつぶつとこぼし始めた。
 君とは鍛え方が違うのです――と言い返す気力も無かった。
 
 私の幼馴染であるこの男、本人には口が裂けてもいえないが、とにかく体力馬鹿なのだ。
 小学生時代は特に強制でもないのに少年野球のクラブに所属して、毎日どろんこになるまで練習。中学生時代はバスケ部にて有り余る体力を存分に発揮。高校生になった今では、運動量はさらに増加したようで、バスケに加え、サッカー部で大活躍だ。
 ――動いてないと死んでしまうマグロか。
 暑苦しいほどの体力を小さな頃から見せつけられて、まともに突っ込む気も失せた。
 今日は、サッカーもバスケも練習が無い日だったらしい。炎天下の中、私がひーひー言いながら歩いていたら、いつの間にか隣に居た。
 何度も後ろから声をかけたのに無視しやがったな! と怒鳴られたけど、わざと無視したわけじゃないし、一緒に帰る約束をしていたわけじゃないんだから、怒られる筋合いなんてない。だけどいろいろと面倒に感じて「はいはい、私が悪かった」と適当に答えておいた。
 我ながら本当に適当だ。
 透は当然納得していないようで、何かぶつぶつ言っていたけれど、私はそれどころじゃなかったから、聞き流していたのだ。
 たらりとこめかみの辺りから汗が流れ落ちる。暑い。のぼせそうだ。それに、さっきから体の調子がおかしい。
 体というか、頭だ、あたま。変になってしまっているのだ。
 透が話していることがぜんぜん頭に入ってこない。なにを話しているかさえ、よく分からない。考えようとすると、透の着ている白いシャツが視界に入ってきて、さっきからとことん邪魔をしてくれる。

 透の身を包む、シャツ一枚。
 といっても、素肌に直接シャツを着ているわけではないから、本当に一枚だけってわけではない。そのシャツの袖口から、むき出しになっている腕。運動をしているからだろうけれど、綺麗に筋肉がついていて、筋張っていて、随分と硬そうだ。
 横から腰の辺りを見ると、男の子は何でこんなに細いんだろうと思う。でも決して、ひ弱な細さじゃない。きっと無駄なものは全てそぎ落とされて、背筋と腹筋しかないんだ、あの腰は。
 私なんてご飯を食べたら胃の辺りがぷっくり膨れるし、おへその下の所なんてもう目も当てられない。
 ちょうど目の高さに彼の肩口があり、薄い綿の布越しに日に焼けた肌の色が透けている。その色を見ただけで、心臓が奇妙な動きをはじめた。
 早鐘のように鳴るんじゃなくて、ずるり、と大きなうねりが生じるみたいな。それが徐々に流れを増していくような感じだ。
 こんなに敏感になっているのは夏の日差しの強さも手伝っているのかもしれない。
 だって、暑くて暑くて仕方がない上に、そこら中から聞こえてくるジージーという蝉の声で、気が変になりそう。

『ほんっとに最低。そういうことばかり考える奴って心底うざいよね」』

 ぼやけた思考の中に、昨日言われた言葉が蘇ってきた。
 私にだって、彼女の言いたいことは分かる。やらしい目で見られたら誰だって気分が悪いだろうし、それにすごく、汚らしい感じがする。自分の体が、洗い落とせない何かで汚れてしまうような感覚になる。
 でもそれなら、私の考えていることはなんだというんだろう。『そういうこと』を女のくせに考えてしまっている私は、どこかおかしいんだろうか。
 女のくせに。
 今、もう無性に。
 隣にいる透の腰に手を回して、力いっぱい、思い切り抱き締めたくてしょうがない。
「――透!」
 私が叫ぶと、びくんっと大げさなくらい透の肩が揺れた。
 ごめん、透。大きな声でも出さないと、この煩悩は離れてくれそうにもないんだよ。
「ちょっと先行ってて。わたし自販機で水買ってくから」
 透から逃げるように自販機に駆け寄って、お金を突っ込み、勢いよくボタンを押す。
 がこんと音をさせて出てきたミネラルウォーターの入ったペットボトルを引っつかみ、夢中で封を開けた。
「もしかして体調悪いのか?」
 背中越しに、透が心配げに声をかけてくる。先に行っててと言ったのに。
 ありがたいんだけど……ありがたくない。
 逃げろ、透。今のわたしは完全にケダモノだ。
「ちょっと、頭がくらくらするけど、水飲めば平気だと思う」
 そう応えてから、ペットボトルの三分の一ほど一気に飲んで、ぷは、と大きく息をついた。
 胸の辺りに篭っていた熱が取れ、多少すっきりした、気がする……たぶん。
「もう一本買っとけば良かったかも」
「水分ばっか取ってると、本気で夏バテするぞ」
 心配してもらえるような立場じゃないから余計、透の言葉が身に染みる。
 会話をする代わりに、さらに二口、三口と喉を潤していると、目の端にこちらを見ている透の顔が映った。
「透も、飲む?」
 思わずそう尋ねてしまったけれど、次の瞬間、思い切り後悔した。
 透は眉をひそめて、険しい表情になってしまったからだ。
 ――ああ、透って、こういうのすごく嫌がりそうかも。変なところで潔癖症っぽいというか。
 あんまり深い意味があって言ったわけじゃないんだけど。ただ、軽いノリで、喉渇いてるのかと思って。回し飲みくらいどうってことないかなって。
 どうってこと……か、間接……ぐらい……いや、うん。
 前言撤回。どうってことあるかもしれない。
 ペットボトルを差し出した手は、完全に行き場を失っていて、ものすごく無様だ。
 アハハと笑って誤魔化しながら引っ込めようとしたら、
「一口もらう」
 と、透がひったくるようにして私の手からペットボトルを取った。
 一口などと言う割には、結構喉が渇いていたようで、どんどんペットボトルの水が減っていく。
 見てはいけないと思うのに、彼がごくりと水を飲む時の喉仏の動きに、目が吸い寄せられた。
 その喉仏から鎖骨に、そのままシャツの第一ボタンから覗く肌へと視線が落ちかけて、はっと我に返った。
 もう本格的におかしい、どうかしてる。
 透は飲むのを止めて、からかいを含んだ声音で言った。
「そんなに睨まなくても、飲み干したりしないから安心しろよ」
 口の端を僅かに持ち上げて、笑う。
 私の視線に気付いていないのか。
 でも、鈍そうに見えて変な所で鋭かったりするから、気付かなかったことにしてくれているのかもしれない。もしそういう意味での笑顔だとしたら――穴があったら入りたい。二度と出てこれないくらいの深い穴に篭りたい。
 ありがとな、の一言とともに、ペットボトルが透の手から戻ってきた。
 けれどそれは大量の水滴がついていて、私の手の中に収まった直後、つるんとすべり抜けていった。
 咄嗟に両腕で抱き締めるようにして、空中で受けとめる。すると栓のしていないペットボトルは、私の腕の中でとくとくと小気味の言い音を立てながら中身を吐き出し、冷たい水で制服を湿らせていった。
 透が腕を伸ばして、私が抱き締めていたペットボトルをひょいと取り除く。そしてそれを自販機の横のゴミ箱に放り込んだ。
 ありがとね、と今度はこちらがお礼を言うと、透はぶすっとした顔で私に背を向けた。
「おまえ、なんなんだよ……」
 不機嫌な声で言う。
「なんかもう、ただでさえややこしいのに」
 なんだって、なんだ。ただでさえややこしいって、なにがだ。
 どんくさいとか、手がかかるとでも言いたいのか。まあ、その通りかも、しれないけど。
 世話かけてごめんね!と、言おうとして、透の様子がおかしいことに気付いた。
 良く見てみれば、耳の色が赤い。首の辺りも白いシャツに透けて見えるほどだ。
 そして、ぐるんと勢いよくこちらを振り返った透の顔は、熱射病ですか、というほど赤くなっていた。
 透は呆気に取られている私の鞄を奪い取って、ぐっと目の前にかざし、
「前に抱えるみたいにして、持ってろ」
 それだけ言うと、私を置いてさっさと歩き出してしまった。
 ホント分けわかんない、と思いながら視線を落とすと、濡れた制服が肌にぴたりと張り付いて、下着まではっきり透けていて――大慌てで透の言うとおり鞄を抱き締めた。

 私の喉が渇いていたのは、気温の高さだけが原因なわけじゃない。
 でも、透があれだけ水をたくさん飲んだのは。喉が渇いていたように見えたのは?
 この気持ちは、暑さだけのせい?



*こちらは、別サイト用に掲載していた同名の作品を加筆・修正したものです。
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