放課後、担任から呼び止められたときに、足を止めてしまったのがそもそも悪かった。
みんなが気付かないふりをして帰ってしまったのを見て、うわーその手があったか!と気付いたのも我ながら間抜けだったと思う。「すぐ終わるから手伝ってくれ」の言葉を信じたのも。
目の前にどかーんと置かれた生活指導のアンケート用紙の山。それを全部処理し終わった頃には、もう日が落ちていて外は暗くなっていた。
そして今、道の真ん中に立ち往生している私の目の前には、吸い込まれるような暗闇――というのは大げさだけれど――真っ暗な道が続いていた。
一人で帰宅するときは、早く帰るよう気をつけていたのに。そもそも世間じゃ物騒な事件が頻発してるっていうのに、女子生徒をこんな危険にさらすなよ担任、と文句のひとつも出るってものだ。回り道は随分遠くなってしまうし、暗いところだけダッシュすればいいかなと思いつつ道の脇に目をやると、黄色い背景色に赤い文字で『ちかん注意!』と書いてある看板があったりして、進みかけた足が止まった。
襲われたりなんかしないよ、あんた自意識過剰だよ、と友達が居たら言われてしまいそう。けど、正直怖い。
これはやっぱり回り道だ、と引き返そうとした時、後ろから来た男の子が私を追い抜いていった。
一瞬しか見えなかったけど、たぶん、私と同じ中学生くらい。知らない子でも、人がいるのといないのとでは心の持ち様がまったく違う。あの子の後を付いていけばいいや、と、少し遅れて後を追いかけた。
前を行く男の子の歩調はゆっくりとしているから、私でも余裕を持ってついて行くことが出来る。付かず離れずの距離で歩きながら、じっと前方に目を凝らした。
通りは暗いけれど、前を行く男の子の髪の色が随分と明るいのが分かる。地毛、じゃないと思う、たぶん。だって色素が薄いっていうレベルじゃなくて――白? いや、うーん、銀髪に近い、かな。あんな頭をしていたら、うちの学校じゃあ間違いなく先生に怒られてしまう。もっと校則の自由な、私立じゃないと無理だ。ここら辺の私立で可能性が高いのは、四条大付属――かな。制服をはっきりと見なかったけど、そう考えれば四条っぽいような気もする。身長はあまり高くないみたいで、背中に背負っているテニスバッグがやけに大きく見えた。
――う、どうしよう。
四条の中等部ってガラ悪いのが結構多いって話だったような。県大会で運動部が騒動起こしたって噂もなかったっけ。極めつけにあの髪の色とか。あの子、高等部にしては小柄に見えるし、中等部だと思うんだけど、どうかなあ。そもそも、四条の子じゃないって可能性もあるし。でも……一応念のため、もうちょっと距離を取っておこう。
用心深く、歩く速度を落としてみたけれど、男の子との距離はさほど変わらなかった。
もう少しゆっくり歩いてみる。それでも、見た目離れたようには見えない。
あれ? まさか、と思いつつ今度は足を止めてみると、男の子は数歩進んだ後、同じように足を止めた。
うわ、なんで!? と、こちらが半泣き状態になっていると、男の子はぐるんと後ろを振り返って。
「ぼやぼやしてると、置いてくよー」
と、一声。そして再び前を向くと、ゆったりした動作で、よーいどんの体勢を取った。
置いていく? え? 私、置いていかれるの!? こんなところで?
「ま、待って置いてかないで!」
頭の中が一気に真っ白になって、思わず声が出る。気付いたら男の子のところに駆け出して、腕をわし掴みにしてしまっていた。彼はとろんとした目で、私が掴んだ腕と私の顔を交互に見てから、
「最初から、そう言えば良いのに」
と面倒くさそうに言って、欠伸をひとつ落とした。
……もしかして、怒ってる?
今までと変わらず、ゆっくりしたペースで隣を歩く彼の顔をちらりと覗き見て、そう思った。
ちかんに間違えられたと勘違いしてて、なんて自意識過剰な女だと思ったのかも。
少なくとも彼の表情を見る限り、ご機嫌な感じゃないのは確かだ。
暗い道を通り過ぎ、やっと街灯のある通りに出る。すると今まで黙っていた彼が不意に口を開いた。
「あ、コンビニ」
ぼつりと呟いて、吸い寄せられるようにふらふらと店のほうに近づいていく。
私は、帰っていいのかな……?
ここから先の道はずっと明るいから、あの子がいなくても怖くはない。
でも、一言ぐらいお礼を言うべきじゃないの。挨拶とか。人としてさ。
どうしていいかわからないで、その場で立ち止まっていると、彼は私のほうを向いて、おいでおいでと手招きした。
「護衛代。ガリガリ君でいいから、奢って」
――有料の護衛だったらしい。
言われたとおりにアイスを買って店の外に出ると、駐車場の車止めの上に座り込んでいる彼の姿を見つけた。肩を丸めて俯いていてまるで眠っているような……じゃなくて、どう見てもあれは眠っている。
起きろー、とばかりに、アイスの入ったナイロン袋をわざとシャカシャカ音をさせながら近づくと、項垂れていた頭がぴょこんと起き上がった。
とろんとした目が私の方を向く。そして彼は再び手招きしてから、「座って」と自分の隣を指差した。
素直にそれに従って腰を下ろし、アイスを手渡すと、彼はそのアイスを半分に割って手渡してくれた。
「半分こね」
反射的に、ありがとうとお礼を言いかけて、はたと我に返った。
これ私が奢ったんだよね。お礼を言うのも、おかしい感じ。
とりあえず「どうも」と無難に受け答えしておいた。
「ねえ、四条の人だよね」
「コータだよ」
「え?」
「俺の名前」
あ、自己紹介してくれたのか。何気に、唐突で強引だな、このひと。
本当の名前は『コータ』じゃなく『こうた』だと思うけど、本人の間延びした声といっしょに、私の耳には『コータ』の方が刷り込まれてしまった。
「コータ君は四条の、中等部?」
「うん、中等部の三年」
「じゃあ私と同い年だ」
「そっちは?」
「私は公立の……」
「違う、名前」
「あ、そか。私は、篠井穂香って言うんだ」
「篠井さん、アイスご馳走さま」
アイスを口にくわえたままで、コータ君はぺこりと頭を下げた。
まさか、お礼を言ってくれるとは。奢られて当然とか考えてるのかと思ってた。
「あ……いや、こっちも助かったから。ありがとう」
意外な不意打ちに、私も慌てて頭を下げる。なんかホントに変な感じ。調子が狂う。
「あの道、暗くなると怖いんだよね。でも遠回りするとかなり時間かかるし」
「火曜と木曜なら、俺、だいたいこの時間帯に帰るよ。テニスで遅くなるから。この曜日だったら、また一緒に帰ってあげる」
「もしかしなくても、その度にコンビニで護衛代を求めたりする?」
「夏はやっぱカキ氷かな。でも、寒くなってきたら、肉まんとかピザまんがいいな……」
そう言ったコータ君の表情が、今までになくほんわかしたものになる。眠そうな目がさらに細くなって、なんだか妙に幸せそうだ。
もしかして今の、笑ってたのかな?
学校帰りの買い食いって確かに楽しいし、普段より美味しく感じる気もするけど。そんなに幸せそうなら――まあ、その程度ならそれほど財布も痛くない、かも。
「べつに、いいよ。じゃあ火曜と木曜で……帰るの遅くなるようことがあって、それでもし、ちょうどよく会えたとしたら、お願いするよ」
毎日会うわけじゃないんだし、まあいいか、と軽い気持ちで頷いた。そもそも、待ち合わせするわけでもないのだから、もう二度と会わない可能性の方が高そうだ。これで最後なのかもしれないと思うと、ちょっと寂しいかも。
――ん? 寂しい?
「どしたの?」
少しの間、コータ君の存在も忘れて考え込んでいたら、ひょいと顔を覗き込まれた。それがあまりに近い距離だったから、「なんでもないよ」と答えつつ、ちょっとだけのけぞってしまった。
「でも、三年のこの時期に部活が出来るなんて、さすがエスカレータ式の学校は違うね」
「持ち上がりって言っても、一応テストあるから、勉強もしてるよ?」
コータ君はアイスを一舐めしてから、「たまにだけど」と、青く染まった舌をぺろりと出した。
しかし、それにしても随分人懐こい人だと思う。初対面で、知り合って一時間も経ってなくて、その上、
あんまり社交的じゃない私でも普通に話せているんだから、これって結構すごいことじゃないのかな。
「コータくんて、人見知りとかしないんだね」
「そー? 篠井さんのほうがそうなんじゃない?」
「もしそう見えるとしたら、それはコータ君が話しやすいからだよ」
「陸とかには、うるさいってよく言われるけど」
うるさい?そんな風には見えないけどな。全身気だるそうというか。動物でいうとナマケモノのイメージだ。
「その人は、友達?」
「そんで、同じテニス部」
そう言ってから、コータ君はにやりと笑った。ちょっとひっかかる、嫌な笑い方だ。
「ついでに、格好いいよ」
「格好いいの?」
にやり笑いの意味が分からなくて首を傾げると、コータ君も同じように真似して首を傾げた。
「紹介して欲しい?」
ああ、そういう意味の。
「ううん、いいや。四条の中等部って怖い人多いって噂があるから、ちょっと不安だし」
「その学校の人間目の前にして、言うね。篠井さん」
またコータ君が笑う。同じような笑い方だったけど、さっきみたいに嫌な感じはしなかった。
「その、気を悪くしないで欲しいっていうか……でもまあこんなこと聞いたら、悪くしないほうがおかしいかもしれないけどね」
「いいよ。うち、男比率多いから、そういうのあると思うし――っていうか、ぶっちゃけあるから」
「あるの!?」
「でも面白いよ」
「面白いの?」
「うん、いろいろ」
「いろいろ?」
いろいろってなに、と聞いてみたけど、コータ君はくふふと変な声で笑っているだけだった。意味がわから無くて最初は呆れたけど、しばらくするとつられて笑ってしまった。
話を聞く限り、なんか面白そう。実は噂ほど怖くないんじゃないかな。もっと話を聞いてみたいけど――ちらりと腕時計に目を落とすと、もう八時になろうとしていた。連絡なしでこれ以上遅くなると、間違いなくお母さんに怒られる。ああもう、前もって遅くなるって連絡しとけばよかった。
コータ君も私と同じように腕時計に目をやってから、残りのアイスにガジガジと噛り付き、一気に食べ終えてしまった。そしてもう一度「ごちそうさま」と言ってから、腰を上げた。
「護衛代貰ったから、家の近くまで、送って行ってあげる」
「え、いいよ」
私も慌てて残りの分を食べ、立ち上がる。
「ここからの道、結構明るいし。ぜんぜん平気」
「そお? まあ篠井さんがそういうなら別にいいけど」
でもさあ、とコータ君がやけに真面目な顔をして、囁いた。
「最近、この辺で事件あったの知ってる? 家まで数十メートルってところで、女の人が通り魔に襲われちゃったんだって」
物騒な事件の話を聞かされて、一人で帰れるほど、私の度胸はすわっていない。
結局、うちのマンションの前まで送ってもらったわけなのだけど、その途中、コータ君はその事件の被害状況などなど、詳細をばっちりと語ってくれたものだから、道すがらすれ違う男の人全員が怪しく見えるようになってしまった。
ちゃんと送ってくれたから、いい人――なんだろうと思いたい。けど、明日から日が落ちたらもう一人で歩けなくなりそうだ。どうしてくれるの、コータ君。
「じゃあね」
ばいばいと手をふってから、コータ君はもと来た道を引き返していった。こっちがバイバイと返事をし返す前に、その背中が闇に消えてしまう。
それがやけにあっさりし過ぎてて、がっかりしたというか。
でも、コータ君の立場で考えれば、奢ってもらったから、そのお礼に家まで送ってあげたまでで、これ以上なにをしろって言うの? ってことになる。だから、この気持ちはやっぱり私のわがままだ。
これで終了。私は友達でもなんでもなくて、今日はじめて会った、ただ同い年の人ってだけ。それ以上でもそれ以下でもない。こっちが寂しいと思っても、それはコータ君には関係なくて――うわ、なんだ私、また寂しいとか思っちゃってる。本日二度目じゃない、なんなのこれ。
コータ君が見えなくなってしまっても、なんだかそこから動く気になれなくて、ぼうっと立ち尽くしていると、突然、暗闇の中から声がした。
「うちに入らないの?」
紛れも無く、それはコータ君のもの。
――ということは、呆けてたの見られてた!?
慌ててマンションに駆け込む時、背後から笑い混じりの声で、ばいばい、と言っているのが聞こえた。
恥ずかしいやら、腹立たしいやら。頬に手を当ててみると、すごく熱を持っていた。きっと真っ赤になってるはずだ。お母さんに見られたら、絶対変な目で見られるに違いない。それで根掘り葉掘り聞かれるんだ――ああああ……それだけは絶対勘弁してほしい。これじゃあ、熱が引くまでとても家の中に入れそうに無い。
「なんなのもう、変な人!」
人懐こくて、のんびりしてて、優しいのかどうかイマイチ微妙な、おかしな人。
だけど、うん。ほら、変な人なんだけど……そんな嫌な人じゃない、と思う。嫌いじゃあない。というか、割と好き、かも。
とりあえず、これから火曜日と木曜日は、図書室で自習をして帰ろう、かな。